このエッセイは、私がまだだだ社会人になったばっかりの頃、学生時代の、卒業論文みたいな感じで書いたものです。   HPトップに戻る

ワンダラーへ    
旅人批判

 ぼくらが旅をするにあたり、さしあたってどんな行動をとるだろう。まず目的地、そして日程、出発は、そして帰りは何日・・・・次に計画日程、旅人は車窓より見送り人に手をふりながら出て行く。 【エット乗り換えは何時で、あそこについて、何分待ち時間があるから食事して、そ〜だ!みやげ物もかわなくっちゃ・・・・】

Question :
ぼくらがやっている旅というものは、帰ることを前提にしているのですね。
出かけるときにはもう帰還が約束されていて、その辺がピンとこない。(五木寛之)

 旅を続ける過程で自らを生き永らえさすという努力をはらうより、日常より旅に対する準備をしてその計画性のうちに日常性の延長でしかなくなってしまう旅の様相が感じられる。自らを生き永らえさしながらその自由な移動としての旅が、出発したその時点から計画ということの持つ一側面でもある規制にそってその精神においても実際においても日常性へのアイデンティティを引きづった旅となってしまう。

元来『奥の細道』をオリジナルとする日本の旅は、そのパターンとして行って帰ってくることをその形態としている。芭蕉は「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」というが、人生を旅と考えた場合日本人は、死を土に還るという発想をとる。つまり人生についても行って帰ってくると考えるようだ。道中困難に出会えば家を志向するというのは万国共通のようだ。家には、家族が居て温かい食事もある。しかし「故郷の山に向かって言うことなし」の感覚に代表されるように精神的故郷志向性というのは日本的なものとして強調されるのではないのだろうか。たとえば、アメリカの西へ西へのパイオニア・スピリット、シェーン come back のさすらいカーボーイ、これらと対照的な、母を尋ねて三千里、寅さんのように放浪⇒トラブル⇒柴又⇒放浪 といったようにかなり故郷そして自らの家との精神的絆は強力なようだ。

 旅における精神的なアイデンティティのひきづりを考えるにあたって過去から現在までの旅の質の変化を考えなければならない。バイキング、マルコポーロ、コロンブスなどパイオニア時代、イングランドの少年の胸を熱く高揚させたきびしい男のロマン、相当な覚悟と勇気でもって踏み出した中世・近世の日本の旅 そして現代のレジャー産業によっかかった旅と、その繁栄からドロップアウトした者らのさすらいの旅など。今扱っている対照としている旅とは特にレジャーとしての旅であることを確認して話を進めよう。

 現在 よりかかり、乗っかかる人生がちゃんとあたったうえでその人生の色どりや息ぬきになろうとしている旅は、それ自体より良い思い出の創作に始終するものに他ならない。帰ってからふり返り見る色どりをより輝かしいものにするために話のねたを作り、写真をとり出会いを求めようとする。そんなせわしないあせりが、旅人をして歩き回らせているようである。前時代、外部からの制御から脱して自身の立てた規範に従って行動した、旅そのものが、自律運動していた時のさすらい、あるいは冒険といった様相をたたえた旅の精神はどこへいったのだろうか。はてしない旅のロマンが語られたあの時代、旅が人生そのままだと語った芭蕉の精神は、今どこに・・・ 確かに旅人人口は増大し、逆に旅は短くなった。その変化が、質を買えたのか、または時代がこうさせるのか。

次に旅の実際において考えよう。レジャー産業の繁栄とともに旅は日常での事前の手続きにおいてそのあり方が決定づけられるようになった。宿の予約から始まり乗車券・指定席券・周遊券、はては旅行のパックなど、ぼくが最もうさんくさく思うのは富山―信濃大町を結ぶ黒部アルペンルートである。これは現代レジャー産業の最高峰のひとつとも思われるもので、距離あたり日本一の料金を誇るものだ。まずここに行くと電車、ケーブル、ロープウェー、船、バス、トロリーと日本中にある乗り物に乗ることになる。歩く必要は全くなく立山・後立山の山稜を越えられるわけである。その間、7時間あまり、歩いていこうとなると3〜4日はかかる。しかし行った人の話によれば、デジタルパンフレット映画館でスクリーンを見ているのと同じ、その反動みたいにみやげものをやたらと買いに走ったり写真をとってみたりするそうだ。ぼくはこれを行ったということについてあやふやでしかない感覚を物質で補強しようとする作業に他ならないと思う。そして旅行のパックとはぼくにとってはこの延長線上にしか考えられない。「日常性より逃避しての旅」という考え方があるが、これでは日常性を持続させようとする行為であり、帰還のための出発といった褪せた旅でしかない。

 そして最も批判されることは、旅を誰かに売ってしまったことであろう。自由を売り渡しスケジュールとそれに伴う交通・宿泊手段を手に入れる。そしてブームに追従してしまった旅。ぼくらにとってとっても貴重に思われるものを売りはらってしまった旅行者、その顔は職場に向かう人間の横顔みたいに疲れて褪せている。ディスカバージャパンのポスター 交通公社のパンフレット これらが旅を演出するんではなく、旅を演出するのは旅人でしかない。

 その旅人なりの旅を創作すること、旅の内実、旅としてのプリミティブな内実をもとめようとすること。生き永らえながらの自由な移動としての旅の中に自分なりの生活を積み重ねていく。日常性からはなれ旅それ自体に自律性をもたせるまで至る。自律運動としての旅、それが目指すものだ。

 

Uぼくと旅

 五木の文章の中にヒステリア・シベリアーカというのが出てくる。シベリアの農夫が何十年と暮らしていて ちゃんと嫁さんも子供もいて、1日働いては家へ帰ってくる農夫が、ある日突然 雪を見ているうちにクワを放り出して すたすたと歩いていってしまう。どこまでもどこまでも落日の方向を目指して歩いていく。これがシベリア性ヒストリーというのだそうだ。

 ある山行の帰り中央東線を東に向かい走っていた。あれは甲府のちょっと手前 釜無川が甲府盆地に注ぐ手前の盆地であった。日は、南アルプスの山稜にかくれようとしていた。まわりに広がる田んぼに1人のおっさんがクワを肩に片手を腰にかけてカニ服で立っていた。おっさんは夕日をながめているようだ。「今日も日が山に沈む あァ〜今日もよく働いた。明日もまた頑張ろう」このようなイメージが浮かぶ、ここは木曽谷とちがい明るい盆地だ。向こうにはなだらかにすそ野をひいた八ヶ岳への山がある。前者とはちがった何百年も定住してきた日本の山村のイメージ、ここからクワを捨て歩き出したあの農夫の姿は現れてこなかった。これら対照を示す2者、その中で、ぼくは前者に限りない憧を感じるのである。今椅子を立ち靴をはいて門を開ける。20m先には国道26号線が、深夜の国道を疾走する長距離大型トラック、 路端に立ち親指をつき出したこぶしを水平に伸ばす。ガーガー プスプス シュ、ガーキ〜ー、STOPブォーンブォーン・・・「どうもすんません」「行き先き?・・・・・・ム・・・どこでもええんです」 「このトラックは?」 「そしたらそこまで。」フォーンフォーン ガン ゴォー ブォー・・・・・

 ぼくの言う旅とは非日常的なものである。したがってパーソナルなことは勿論である。旅とはその本質において非社会的なものと考える。旅人はそれ自体 彼が旅する社会においては、異邦人であり、それ由 自由と不安と孤独とを共有する。この3者について言えば、自由の裏面こそが、不安と孤独なのであり、両者の相剋こそが旅の重さとでもいうものであろうか。

 旅を航海と漂流に分けるならば、ぼくの旅、ぼくなりに目ざそうとしている旅とは漂流であろうか。航海とは、ひとつの目的地をもったもので、漂流とは、それが難破し漂泊していくことを言う。漂流者はその中で、食物を捜し帆走を工夫し自らを生かそうとする。

 ぼくは、日常性よりの逃避の旅ではなく、人生の中の色どり点景としての旅以上に旅それ自体をひとつの律動性にまで昇華させることを期待し そして それを自らにとって何らかの創出への土壌となすべく期待をかけるものである。抽象的な表現はさておいて実際においては、なるべく長距離の そしてなるべく長時間の またなるべくぎりぎりな肉体的旅、こんな旅こそが上記のようなをもつ旅ならんことをぼくは確信している。つまり豊の面から質的・精神的な面を露出させようとするのだ。

 長期にわたり、長距離で、ぎりぎりな旅、あの北海道の旅がそうだった。平原に道路が一本伸びていた。その道が、牧場の起伏の中をどこまでもまっすぐに続いているから歩き出した。旅への衝動以外の何物でもなかった。しかし しまったことにその道は北海道の真中から北に向かって伸びていたんであって、ぼくの家へとは逆方向に進んでしまった。なけなしのサイフをもったぼくの不幸な旅は、この時から始まったんだ。ぼくは、最北端に向かって進んだ。「どうにかなるやろ。」論理的・合理的頭脳をもつぼくなら引返しただろうが、ぼくの奥底にひそんでいたオプチミストは、ぼくを一文無で宗谷岬へたどり着かせた。

 帰ることも考えず、それから1ヶ月ぼくは北海道をまわっていた。出っぱなしの旅 結果的に帰ったとしても行きついたという帰宅であったあの旅。以後これがぼくの旅の原点となった。

 

V 放浪とは

 放浪という言葉がある。ぼくは、それを知っている。現実に放浪するがごとくさすらいの旅に出かけたこともある。ヒッチハイク、ベンチに寝ころぶ、あき家に、神社のお堂の縁に寝ころぶ、くず箱をあさる。しかし さまようことが人生ではなかった。ぼくは「放浪」を知らない「放浪者」が語るのを聞くだけである。「放浪」とは、その本質的な意味にあいおいて未来永却やりっぱなし さすらいそのものが人生なのである。由にそれが一般に許容されている人生、つまり勤労 及び それに対置されたものとしての余暇・レジャー・遊びを中軸とした人生とは相入れないことは明白である。このような存在における『放浪』とは、現在のぼくらにとってどのようなものなのか考えてみよう。

 スポットをアメリカに向けよう。カウンター・カルチャー(対立文化)によって行われた、そして行われている『放浪』に、 カウンター・カルチャーとは、1960年代より現象化し、68年にそれが、ことば として登場してきたものである。ヒッピーに代表されるこれは、マスコミにより長髪・ミィスティシズム・コミューン・アナーキズム そのサイケデリックなかっこう・ドラッグ・アンダーグラウンドな刊行物等により社会に印象づけられた。60年代中・後期をピークとしたこれらの運動は、そのなかにリーダーが居て、とか、組織されたとかいったものではなく、いわば不定形の運動であった。ぼくは、このカウンター・カルチャーによって担われた『放浪』 現代における『放浪』を考えてみよう。

 ここで、かなり有効な手段としてあげられるのは、アメリカン・フォーク・andフォーク・ロックをあたっていくことである。実際LP3枚のうち1曲は『放浪』に関する曲が組込まれている。歌は、メッセージであるが、ある局面においては、Singer Songwriterのメッセージをはなれて、ある世代、文化の心情を、人生を、逆照射するメッセンジャーとして存在する。とりあえず、40〜50年代を見回して信ずるに足りる古典をさがしてみた。

 まず、アメリカの一部では、まさに宗教曲とさえよばれている『ランブリン・マン』 作詞・作曲ハンク・ウィリアムズに登場してもらおう。 『ラブ・シック・ブルース』で有名なハンクは歌う 「ひとつの人生に乗っかって けっこううまくやっていくことだって出来なくはないのだが、列車の音を聞くと軽い旅じたくで飛び出したくなってしまう。飛び出さなかったら気が狂ってしまうことだろう。俺は君を愛しているけれど、とにかくわかってほしいよ、俺は生まれながらのさすらいものさ」 ハンク・ウィリアムズは許容された人生から しなやかに時としてかっこうわるく断固として降りていくことを歌う。今までは、まさに古典であるこの曲は「放浪」することが、人間そのままだとメッセージする。今、そしてボブ・ディランの時代より神格化された放浪のSinger Songwriter ウディ・ガスリーを知っているだろうか。ディランの、そして日本においては岡林信康の原形ともいえる彼は、1921年にオクラホマの石油の町に生まれ、オーチーと呼ばれるオクラホマ流民の1人としてアメリカ各地を放浪し14曲にも及ぶ作品を書き続けた。ウディは「放浪」のみに自らの人生があるとし、その「本当の人生」をまっとうした。栄光への道としての「放浪」の体現者であった。彼は、ハンティントン氏舞踊病に倒れ歌うことをやめるまではオクラホマを感動的に歌い、ナンセンス・ソングから移民労働者をはじめとするプロテスト・ソングに至るまで、降りてしまった透明な目でもってその自由さで「本当の人生」を主張した。

それ由、彼の軌跡は60年代のカウンタ・カルチャー特にディランなどにとって、1つの理念であり象徴であり得た。ニューヨークのグリニッヂ・ヴィレッヂに出てきたディランは、彼と会っている。ディラン「何か来ようとね、もう恐いものなしでしたよ、ウディに会って私は生涯で最も意気軒昂な気分になりました。」

 ウディ・ガスリーが好んで歌った『ホーボー(放浪者)の子守唄』「Go to sleep you little hobo/Let the town drift slow by/Can't you hear the steel rail hummin'? That's hobo's lullaby./Don't think about tomorrow/Let tomorrows come an' go.Tonight you've got a nice warm boxcar./Sate trom all the wind and snow//Well,I know the police cause you trouble.They cause trouble everywhere.when you die and go to heaven.Then you want no policeman there./I know your clothes are town and ragged. And your hair is turning grey.Lift your hair and smile at trouble,You'll tind happiness someday.Go to sleep you little hobo.Let the towns drift slowly by.Don't you feel the steel rails hummin'?That's a hobo's lullaby.」 鉄のレールのうなりを子守歌とする放浪者のリアルな生活が歌われる。明日のことが心配かい 明日なんか勝手に過ぎさってゆくさ・・・・顔をあげて、トラブルに微笑みかけておやり、きっといつか、平和と安息が見つかる・・・・」というあたたかなオプチニズムは、ぼくらの旅情をはてしなくそそる。しかし白髪混じる放浪者の前余は、暗闇であり、その暗さはこの曲全体をおおっている。

 降りてしまった者による自由、それ自体の透明な可能性は次のような局面ももっている。

『ランブリン・ボーイ』 「・・・Late one night in ajungle town.The weather it was cold and down.He got the chills and he got'em bad They took the only pal I had He's left me here toramble on Myramblin' pal he's dead and gone....」

 これは、60年代に日本でも岡林なんかが歌ってた曲であるが、一言で言ってしまうなら滅亡の可能性ということだろう。滅亡の可能性に目もくれず、あるいは、それを根拠なく否定し 明るい栄光の将来にのみ視点を定めた生活に自由のあるはずがない。時とともにかげりを濃くする滅亡や墜落への可能性の局面、それがこの自由のもつ事実としての姿なのだ。時代はさらに進んだ。滅亡への可能性と表裏一体となった自由をたたえた「放浪」が栄光への道であった時代は、すでに古典的でしかない。現代における『放浪』とは、より複雑で屈曲した様相を示している。   (続)

ボブ・ディラン『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』(1965年)よ

『エデンの門から』

無縁の太陽がやぶにらみにさし込む ベッドは絶対にわたしのものではない 友達や他の見知らぬ人達が 彼らの運命から辞職しようとする それは死ぬ以外やりたいことは何でも できるように 神聖に完全に自由であるがままにさせたいためだがエデンの門の内側には裁判はない。

 

ワンダラーへ part2

 

T僕と旅

はたして現在の世の中を信じきれる人間が何人いるのことだろう。虚構の世界という現状観は100%ぼくらの共有感である。かくした現在にあり、人生をつじつま合わせて生ききるためには開き直りとか諦めとかが必要なようだ。しかし、そういった割り切った格好はさておいてぼくが対象にしようと思っているのは、柴田翔の小説にある青春→挫折の図式に表わされるような人間としての正面切った生き方である。しかし、そうあればあるほど、半身にならざるをえない時、これが幸じて半身が習性化した者、また時にはひっくり返って受け身を必要とすることが往々である。

 こうした窒息状態に陥った時、必ず彼は夢を描く―――あたかも限界状態の人間がかいま見る幻視の如く。それは限られたスペースとしての日常生活から遊離して無限の広がりでもって愛に満ちて描かれてゆく。ぼくの意識の中にあってぼくを旅へとかりたてる原動力は衝動であったかも知れないがその本質的なものはぼくの体内のより深みに横たわり、持続的にうっ積して何らかの窒息状態かも知れないが、その本質的なものは、ぼくの体内のより深みに横たわり、持続的にうっ積した何らかの窒息状態かもしれない。ならば旅を考えるにおいて、この精神的窒息状況を考えることも意味あることだろう。
 この精神的窒息状況を書き綴ってきた作家に安部公房がいる。社会生活の圧れきは、自由な人間性の展開であるはずの人間生活を索漠としたおぼろげで現実性のないものにしてゆく。公房はアイロニーに満ちて小説を非現実の世界へと想像力を持って展開さす。この状況をコース・カルチャーが鋭い感性で嗅ぎつけたのに「おやじ見りゃおれの将来しれたもの」といった小句がある。やるせない厭世感表明したユース・カルチャーの視点ではあるが、このしらけ感覚にぼくは何か人間として大切なものを失ってしまったようなそういった喪失感を覚えるのだ。ぼくにとって窒息感を喪失感とは表裏一体である。びくという人間性の自由な展開そんなものの足りなさと不在感それがそれが由にぼくは夢を描く。夢とは常に現実の自分における欠落物の証明であり自己の内部にその夢を支えそれを志向する何ものかが奥深く存在していることを教えてくれる。
 だから夢によってさし示される方向に向かい、ぼくは歩いてゆく。志向するものに沿って欠落物をとり戻すために。岡林は窒息状況にあって生きるために旅に出ることを歌う はたして彼は何を信じたかがために疑い続けるのだろうか、とにかく1970年『自由への長い旅』「いつのまにか私が私でないような 枯葉が風に舞うように 小舟がただようように 私がもう一度、私になるために 育ててくれた世界に別れを告げて旅立つ 信じたいがために疑いつづける。自由への長い旅を一人 自由への長い旅を今日も」

 

U放浪とは(その2)

 放浪とは本質的に未来永却やりっぱなし出っぱなしといったものであるが、ぼくは長い間放浪という実体を定義できる言葉を教えていた。その末、ようやく浮かんできたのが、放浪とは降った一生涯に渡るさすらいといったところだろうか。この三者はどれが欠けても放浪というものを成り立たせない必要条件であると思え、まず降りたさすらいであればさすらいの期間が未表示で出っぱなしといった放浪と流浪とは表面上同一のようである。しかし、その本質的な違いは流浪とは旅人が依然として社公のとの何らかの関係を保った状態をいうのに対して放浪とはそれを否定した状態であるということだ。最後に降りた一生涯にわたるといった言葉の組み合わせでは意味は成さない。すなわち、これら三つの言葉はそれぞれ次のような意味を表わしているのだ。降りたとはdrop outつまり社会から出てしまった状態を表わす社会とは人間の集合体であり、その人間同志が何らかの関わり合いをもって成立する。そんな関わり合いの中で最も基礎的なのが分業による共業といったことだろうか。こうした絡み合いによって人間は食っていける。つまり生存することを社会から保証されている。社会から出るとはこういった関係を消し去ることである。それは、社会に何ら責任を持たない代わりに 又、社会から何の保証も与えられないということなのだ。一生涯に渡るとは具体的な期間を表わしている。さすらいとは身の寄せるところのない旅である。

 降りた・一生涯に渡る・さすらい この中で一生涯に渡るさすらいとは(その1)で放浪生活というものの実態について考えた折にふれてきたことである。そうならば降りたとは社会から出るとはさしあたり勤労をやめる、家族を去る、定住をやめるといったことだろう。ここに於て何がして自分とこれらのものとの関係を断ち切らせるに至るのか。まず考えられるのは限りない旅への衝動である。実際すさまじいほどに登上したカウンター・カルチャー運動は可視的・中心的にはニューレフトとヒッピーにより突出的に表現された一連の動きである。それは、産業公害や自然破壊ををもたらす道具的・機械的合理化や人間疎外や生き甲斐の喪失をもたらすテクノクラート的心性の支配といった総じてテクノクラート的産業社会に対する抗議からはじまり、新たなライフスタイルの模索にまで発展していった。全般的反主化の思想であった。すでに十年近い歴史を持つこの運動の展開を見てゆくと三つの段階に分けられる。第一期六七〜七〇年「大いなる拒絶」といわれた時期、高産業社会がその内的矛盾をさらけだした時期と重なり支配的な価値観に対する執拗な攻撃が政治的プロテスト運動を結んで展開された。いわゆるヤング・ラジカルが圧倒的猛威をふるったのもこの時期でそのスタイルは従来の言語体系による理解や共感を拒み例示的行為・意識的挑発、激突とかがとられる。アングラ文化が全盛の時期だ。
 第二期コミューン建設の時期、政治的ウイングが講義→抵抗→開放と運動のヴォルテージを上げていくにつれ、また、それが挫折という形で終結した時、新たな質における生活というものがおざなりにされる傾向にいらだちを覚えた人間革命ウイングによってコミューン運動が展開されていった。ニューレフトから神秘政治への変換の時であり運動は内向化の局面を迎えた。第三期の現在の段階である。コミューン間の連帯、農村コミューンの都市コミューンへの転換、代案施設を通じて市民との積極的な接触などと内向化から外部への浸透化の時期だ。宗教や霊法の世界への傾向強まる。

 この運動は現在、当時の華やかな様相は失ったものの既に先進国の(特にアメリカ)文化の内側へ確かな橋頭堡を打ち込み、持続する運動体として存続している。この新たなライフスタイルの確立と新しいコミューン建設につき進んでいる運動のしたたかな存在をさして現在の支配的文化、そして支配的社会構造の全面的転覆への原動力と指摘する学者もいる。

 しかし、今カウンターカルチャーによる脱近代化の意識たるものを体系だってモーラし、それに分析を加えるつもりはない。むしろアトランダムに彼らのコメントをここに並べることにとどめよう。「近代化の総体的結果は帰るべき故里の喪失であり、我々の理想は故郷に居るような居ごこちの良さだ。ぼくらは膨大、複雑たるゲゼルシャフト(組織)からゲマインシャフト(コミューン)を目指す。「時計によって一日を組織立てるのは、しゃちほこばり(アプタイトネス)だ。そして、カレンダーによって人生を設計するのはねずみ競走の犠牲だ。」

「あらゆる」計画、計算、組織だった企画(その他のテクノロジーによる機械的合理性)とは人間と世界の関係から自然性を奪う倒錯だ。現実は(合理的制御により)支配するかわりに理解すべきであり他者とは操縦する代わりに出会うべきであり合理的思考よりもフィーリングによる感受性を鋭敏さが重要だ。」(コミューンにて)「セックスも自然な生き方ないし自由な人間というトータルな展開に於てはほんの一部分としてあるにすぎない。ぼくらが問題にするのはフリーセックスよりも精神の自由だ。ぼくらの前でセックスしたり排泄したりするのにこだわる者はない。」「現代の大都市工業社会とは母なる大地である地球衛星の生命の泉を毒するガンである」「第一次世界が資本主義社会で第二次世界が社会共産主義社会、第三世界が発展途上国を指すが、第四世界というのは政治、経済体制からはずれて生きる人達をいう。たとえばアメリカンインディアンとかプリミティブ(原始人)とか、そして文明の原始人であるぼくたちだ。

 さて、この辺にとどめるとして、ぼくがこのカウンターカルチャー運動に於て最も関心をひいたのは自意識の超越や自然との合体による精神変化というポイントである。自意識の超越や自然との合体への具体的手段とは性的オルガニズム・ロック・ドラッグ・教えこまれた生活習慣や価値観の総点検・自然そのものへの接近とかいったことがあげられるが、こういったものを通じて日常生活の中で押しつけられた合理的制御や自意識に基づいて作用している。これまでのしゃちほこばった精神を破壊し、人間としての自分を再発見しようといったことだ。そして、彼らが見出したものとは、自意識と合理性という気詰まりな金脈の下にあった「自然的生きものとしてのおのれ」という、やすらかな事実なのだ。

 まさしくこの精神の変化をうながし内面的な深まりを増すその成長というか プロセスのダイナミスムがカウンターカルチャー運動に他ならない。カウンターカルチャーの行う ライフ スタイル・主張(著明なものにエコロジー運動がある)は、全てこの事実認識である。

 流れることを自らに強要させる放浪者の姿は流れることがさすらうことが人間の使命であるかのようにぼくに迫ってくる。この様な旅そのものを目的とする原動力の推察がまず考えられるが、もう一つ思い浮かぶのは自由の獲得を目的としその具体的手段として旅があるといった推察である。
 社会に生きることが自分を殺すことでありこの様な人間性の窒息感がして自由をめざし、この手段として旅を選ぶ。放浪者は自分を生かそうとして自由を求め旅に出る。こうした立場にある旅人の姿勢こそがぼくが前稿からスポットをあてているカウンターカルチャーによって担れた放浪というものを考える上に於て重要な鍵となってくるのである。
 part1の最後に書いたディランの「・・・・・彼らの運動から辞職しようとする・・・・それは神聖に完全に自由であるがままにさせたいため」といった言葉は社会が自分を殺し旅に出ることが自らを生かすといった自由を求める旅人の意識の象徴である。ぼくらはアメリカの若き2人の青年が「神聖な完全なる自由」を求めて旅に出た物語を知っている。その名は『イージー・ライダー』

1969年 時はニューシネマの時代。カウンターカルチャーがラジカルに胎動し初めた時期だ。自主制作に近いこの作品は衰退したハリウッドを尻目に商業的にも非常な成功をおさめる。プロデュース:ピーター・フォンダ 監督:デニス・ボッパ フォンダはこの映画について次のように話す。「イージーライダーとは南部の言葉で娼婦の夫のことだ。ポン引きではなくその女と一緒に生活している男のことを言う。楽にやっているからイージーライダーだ。アメリカはこのイージーライダーになってしまった。自由をパンに出して、皆がイージーライダーになったのだ。麻薬密売でしこたまもうけた金で二人はモーターサイクルの旅に出る。保守的な南部の田舎をぶっとばしマリファナを吸う二人は一見自由そうだ。しかし彼らは村人に襲われ、フォンダ扮するチャプテン・アメリカはショットガンで撃たれサイクルごとぶっとび壊崩する。「私のこの映画は自由について語っているのではなくて自由の欠如について語っているのだ。私がつくった英雄たちは正しいのではなく間違っているのだ。私が最終的に成し遂げられるのは、私がつくった人物を殺すことだ。私は最後には自殺してしまう。アメリカが行っているのはこの自殺だ。フォンダがこう結論づけた時、サイクルは弾れたように斜めに滑空した。ちょうどその時スクリーンのバックにディランの『イッツ・オール・ライト・マ』が流れる。「・・・・あなたの神経の中に質問が点火された。だがその質問にふさわしい回答はない。だからといって回答を捜すことを忘れたりしてはいけない。あなたが属しているのは、彼でも彼女でも彼らでもあるいはそれでもない・・・・」

時代は更に進んだ。滅亡への可能性と表裏一体となった自由をたたえた放浪が栄光への道であった時代はすでに古典的でしかない。僕らが疑うことを知らずにVサインを作っていた時代は去ってしまった。ぼくらの意識を代弁してくれる象徴としてのディランや岡林もすでに偶像であり一人の音楽家でしかなかった。ならばウディ・ガスリーの如く、問い返しがラディカルであるが由に自らがアウトサイダーでしかありえなかったというアウトサイダーのシリアスな信憑性は一体どこに見つけられるのか。
しかしこれに対する答えは次項に回そう。神経の中に点火された質問に対する正当な回答をぼくはカウンターカルチャーの運動の総体の中に見出す。カウンターカルチャーの自己否定の末、切り開かれた彼らがそう呼ぶところの自由の地平に。

 

V カウンター・カルチャーの思想

 旅の本質が自由にあるということをことさら繰り返すつもりはないがそれは必して好き勝手な行動状態を言うのではない。エンゲルスによれば自由とは歴史的必然性に従っている姿であり、ぼくはカウンターカルチャーの理念の中にかくした自由を感じる。そしてカウンターカルチャーの提示する新しいライフスタイルに対しても放浪と同様あこがれを感じる。現代に精神的窒息状態を考えてきたがそれを乗り越えたところから発生しぼくらにとって予想外の所から突き出された新たな価値を提唱するカウンターカルチャーという総体はぼくが旅を考えるにあたって教えられることは大きかった。

 60年代後半から70年代初頭にかけて全世界的規模で先進産業社会にドラマチックにの上にたったものだ。現実世界の主流派より社会生活のフラストレーションからの逃避主義的適応、つまり「やつらにはオレらだけの意志や忍耐力なかっただけなのさ。」と片付け らも、ぼくは彼らの運動や意識に何か新しい光を感じる。大きな歴史的見地からいずれが歴史的に先進的なのかといった議論を進めるには余りにもカウンターカルチャーが微弱すぎるかも知れない。しかし彼らが運動の過程に於て到達した「自然的生きものとしてのおのれ」というやすらかな事実を拠り所とした生活や主張を見る時、ぼくは、人間としてそうであるべき姿というものをそこに感じるのだ。ここで僕は彼らの主張する通り合理的思考よりもフィーリングでもって言い切ろう。彼らの姿とは歴史的必然の自由かもしれない。そして制度や個人に負わされた役割を超えた赤裸々なおのれを人間の現実の様と見なす考え方を近代精神の根本に横たわっている考え方とするならば人が彼らの運動意識を脱近代・反文明的衝動と呼ぼうともそれは脈々と伝えられた近代精神の風土的前提に立脚するものである、どこまでも近代的である。

 再び、コメントへカウンターカルチャーを担う一フリーク(自称:完全なる自由人)が旅にあてたコメントを「蚊取り線香をつけるより蚊に耐える体をつくろう。寝袋に頼るより朝露に快感を覚える体になろう。ヒッチハイクは愛相良くやろう。何度同じことを聞かれてもさわやかに答えよう。最初の予定計画は破られるためにある。」そして「私はただ旅をしたかっただけです。出会いも別れもいりません」

 

W 僕とたび −旅としての自然行−

ここら辺で少しばかり話の流れをふり返ってみることにしよう。話がこんがらがってややこしくなってきたから。
 「現代批判」という正面切った格恰のいいテーマとはうらはらに構成力に甘い点描的な話から始まった『ワンダラーへ』は先ず、ぼくのしている旅、そしてぼくのやろうとしている旅を客観化しようとすることから始まった。そしてこのことはこのエッセイを貫くモチーフでもある。
 まず「肉体的」で「長くて」つまり長時間、長距離で「ギリギリな」旅ということから、それを限界にまでつまり人間の一生に迄ひき伸ばした放浪というものに視点をあわせてみた。
 次にぼくが旅にひかれる動機といったところから特にカウンターカルチャーにおって担われた放浪というところに視点をあててそれを推理、推察してみた。そして、それとの関連からカウンターカルチャーの思想を、いやそんな大ぴらなものではなくて、その中でぼくが特に関心をひくところを見てきた。
 それはフォンダが点火した疑問符に対する正統な回答と思われた。(また、彼らが提唱するエコロジー運動とは次項に於てのライトモチーフとなるものだから。
 ということでこれまでのあらすじを整理するのは終わりにしてここにおけるテーマ―旅としての自然行―へ移っていこう。

 山行とは、ぼくには旅と思えるのだ。登山という行為も一つの運動の持続体に他ならない。しかし、陸上競技テニス野球・・・などとはちがった点の一つに登山がそれ自体で人間の生活というものを形成しているということがある。前記のスポーツは、それら自体で生活というものを形成することができないのに対し、自然の中での積み重ねが登山という行為である。そして前記のスポーツでは勝ち負けが通常云々されるに対して登山にはそれがない。なぜなら人間の生活に優劣の差などつけられるわけがないからだ。それをしようとする人は、自己信念の他者に対する強要者であるからであるか又はこり固まった社会通念の信奉者である。だが誤解されては困るのは登山における事故がスポーツにおける負退であるということを否定しようというんではない。これとそれとは別問題だ。つまり、ぼくが言いたいのは、登山に於て行われる自らを行き永らえさしながらの移動という行為が明らかにぼくにとっての旅の定義の中に抱含されているということなのだ。登山がスポーツからはみ出るというのは単にそれが対自然の行為だからといったものではなく多分それと関連した型で登山という型の旅が人間の奥底に及ぼす情動といったものに起因するんではないだろうか。とにかくぼくは移り変わる自然の中で生活することに旅を感じ旅としての山を思うのだ。「山行」という言葉がある。しかし、ぼくは、この言葉が嫌いだ。むしろ「自然行」と呼びたい。山国日本という日土的特徴かも知れないが又古代アニミズムの自然景観の中から特に山だけを選びそれを   することに多少のいぶかりを覚える。深田久弥の文章の中に高原に関するコメントがある。それによると「高原」という語義の発生は名詞移行であるといった記述から始まり次のように書かれている。「

ジョバンニ・セガンティーニ(Giovanni Segantini)
1858年〜1899年。スイスの自然描写が有名。

名詞以前の日本人の自然観は専ら南画風の林泉の趣に執着して開潤な草原を愛した形跡は芸術作品にも見られない封建時代が終わって自由な思想が拡がり外国文学の自然描写や洋画の影響もあって次第に美を見出してきたのであろう・・・・」その後登山が盛んになるにつれて高原を愛する人も多くなりやがて山と高原と並び称せられる様になった。白樺というそれまで雑木扱いされていた木がロマンティクな風景として役立ち農耕牛馬の放し飼いの荒涼地が牧場という新しい言葉で呼ばれ、遠くの山々がセガンティーニの絵の様に眺められる様になって、もはや高原逍遙は登山の大きな分野を占めてしまった。・・・・」こうした姿勢を一層広げたのがバックパッキングの思想である。ここでは山行又は登山は対自然のアウトドアライフの一環としてとらえられる。だから「日本人の心の底にはいつも山があった」といった確認を自他共にとりかわして書かれていった彼の『日本百名山』に対しても何かぬぐいきれないものを感じる。例えば、この中にもある知床半島の羅臼岳に関しても彼が抜き出したこの主峰よりむしろばくはそこから東にオチカッパケ〜硫黄岳へと続く稜線に点在する微細な自然に注目する彼が百名山を主張するならぼくは百自然域を主張しよう。かくした姿勢いや深田久弥のことをいってんではない。ぼくらの内にしみ込んでいる山岳一点ばりの自然偏向といった姿勢に於てはヒル・ウォーク・荒野のさすらい・トレッキングといった発想は出てこない。

 ぼくはアジアの中からヒマラヤのみを選び出しこれにのみ執着するよりヒマラヤの母なるすそ野でありそれを微々として包み込むアジア大陸に執着するだろう。2メートル足らずの人間の目からは山は巨大であり全てを指しおいた目標たりうる。しかし高度2万メートルの上空からは山はささいな自然のひだにすぎない。山行に限られることのない自然行と自然的コスモポリタニズムを。山とは自然の一形態にすぎない。

 そしてぼくの旅に於ていわゆる山行を含めての自然行は現在その主流を占めている様だ。それは、ぼくの旅に対する指標の内「肉体的」「ギリギリな」という条件を満たしてくれる。

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